原点「大学中退→マレーシア赴任→帰国後に経済誌記者」という始まり ~自己紹介を兼ねて~


★サービス説明と直接的な関係がなく、J-Tube及び弊社をご存知ない方向けの内容なので、既に背景をご存知の方は②からどうぞ。


小学校高学年から母子家庭に育ち、必ずしも余裕がある少年期を送ったとはいえない私は、父の遺訓、母の愛情、恩師の導き、祖母の貯金のおかげで、なんとか大学に進学することができました。


私立大学の学費は、18歳の私には実感がわかないほど高額で、前期の学費を出してくれた祖母に感謝しつつ、後期からは自分で稼げるだろうかという不安と緊張の中、バイトをしながら毎日往復34kmの道のりを自転車で通学し、往復2時間20分の道のりは毎日外国語のカセットテープを聴く、というのが私の学生生活の一シーンだったのを懐かしく思い出します。


陸上部で長距離の選手だった私は、「長期目標を決めて数年間、毎日コツコツ取り組む」というスタイルが性格的に好きで、今思えば、この時の「自転車セルフ語学学習」で鍛えた意志力と計画性が、今の語学力を支える基礎となったのかもしれないと回想しています。

学生時代はドイツ語、フランス語、中国語をかじりつつ、特に韓国語に熱中し、少ない貯金をしては約3ヶ月おきに韓国一人旅。


大学2年生の時に行った4回目のソウルでの体験談を、高校時代の世界史の恩師に近況報告を兼ねて手紙に書いて送った際、その旅行記が(勝手に)全国誌に掲載され、全国放送の番組で引用、紹介され、たまたまそのテレビをご覧になっていた岐阜の社長さんから突然電話があり、私は人生初の岐阜へ。

「私は昔、陸軍の兵隊としてマレー半島上陸作戦に参加し、イギリス軍との戦いで窮地に陥った時、マレー人に助けられた体験がある。だから将来は必ずマレーシアに恩返しするとの一念で会社を興し、今の地位を得て、最近、マレーシアに念願の現地法人を作ったところだ。ところが、現地で働きたいという若手がいなくて途方に暮れている。そんな時、テレビで君の旅行記に感動し、『この若者なら、マレーシアで働いてくれるのではないか』と直感し、テレビ局に電話し、出版社につないでもらい、君に電話したんだ」
(個人情報保護の概念が今ほど一般的ではなかった90年代の出来事です)

「ありがとうございます。事情は分かりました。しかし私はまだ学生です」
「え・・・?なんだって?ならば、すぐには働いてもらえないか・・・」
(「どうしてそんな基本的な前提が伝わっていなかったのか?」と一瞬思いましたが)
「会長。私は高校時代から、人生でいつかは海外で自分の力を試したいと思っていました。このように早い時期とは思っていませんでしたが、たとえ社会に出る前でも、望む機会を掴めば、私はいつでも大学を辞められるだけの勉強はしてきたつもりです。ただし、こういう偶然の経緯で入社すれば後々社内で説明がつきにくくなるでしょうから、一つ、お願いがあります。私に入社試験と面接を課してください。正当な選考を経て合格すれば、すぐに大学を中退します。不合格なら学業を続けます」


そして私は一般常識、英語、時事問題、面接の試験に合格し、19歳で大学を中退し、20歳の秋、ツインタワーが完成する前のクアラルンプールに赴任しました。

 

 

私が現地赴任生活に際して課した条件は、業務で必要な場合を除いては「①日本語を使わない、②日本人と付き合わない、③日本人のいる場所に住まない」の三つで、私はマラヤ大学そばの電柱の張り紙で物件情報を見つけて電話し、そこに住むことにしました。


新たに出会ったルームメイトは、マレー人ムスリム2人、中国系マレーシア人のムスリム、ユーゴスラビア紛争から亡命してきたボスニア人ムスリム学生の4人。


朝はアザーンで目覚め、毎日ハラルに配慮し、イスラムの儀式を体験し、マレー半島各地を走り回り、マレー語、アラビア語、セルビア語が飛び交うダイナミックな環境の中での生活が、大学を飛び出してクアラルンプールにやってきた私には魅力的で、貿易や会計を英語で学びつつ、イスラム、東欧、中東、アフリカの歴史や文化に魅了され、2年間の海外勤務経験は私の青春時代のかけがえのない歴史となりました。

 


帰国時に計画してきた8ヶ月のアジア周遊の途上のマニラで所持金全額を盗まれて、マニラ湾で4日間ホームレスになった私は、後半の旅を断念して帰国し、地元福岡で経済誌記者に。地場企業の商品、サービス、技術、特許を取材し、執筆し、編集するエキサイティングな生活で、企業経営についても少し学ぶことができました。小さく新しい会社だったため、編集や製版を外注する余裕がなく、DTPソフトウェアも社員が担当できたことで、Adobeの主要なソフトウェアをほぼ使いこなせるようになり、23歳の私は基礎的な貿易業務を外国語のみでこなせ、5ヶ国語を理解し、DTPソフトウェアに親しみ、法人営業や企業取材記事執筆の経験もいくらか積み重ねていました。


そこから調子に乗って独立し、4回倒産寸前に陥った苦しい時期を経て、翻訳、編集業務やフリーターの再就職支援、学生の職業教育などに携わり、数年たったところで、カリフォルニアに住むフィリピン人の友人から久しぶりにメールが。


「アメリカでは今、facebookってのが流行ってて、みんなこれで連絡しあってるから、よかったら登録してね!」


フィリピンの友達に教えてもらったため、私はNaotaka KojimaとアルファベットでFBに登録。
するとしばらくして、約10年前に別れたマレーシア勤務時のボスニア人のルームメイトの兄弟や、中央アジア、アフリカ、中東の友人たちが次々に私を発見してくれ、2008年頃に、海外勤務時の思い出が鮮明によみがえる経験をしました。


私の赴任当時は学生や新入社員だった各国の友人たちは、10年を経て起業家、有名企業幹部候補、政府の要職スタッフなどになっており、成長市場で活躍する多くの友人から「日本製品や技術を調達したい」と要望があったので、私は久しぶりにマレーシアを訪れました。